医師会病院設立裏話
医師会病院設立の頃
はじめに
医師会病院が設立されて30年にならんとする。設立当時の赤磐郡医師会理事会の
先生方、A先生以外のT会長、K副会長、H副会長、F理事、T理事は帰らぬ人と
なられている。(A先生も2118年に亡くなられた)
設立に中心的役割を果たしたT、F先生については医師会病院の職
員はもちろん赤磐医師会会員の先生でもご存じない先生が多くなったのだろうと
思う。できうる限り記録を残しておきたいと思う。
設立の打ち合わせで遅くまで、明け方近くまで議論しましたが、そのお宿を再々なら
ずしていただいたH先生の奥様には心より感謝する次第です。
設立が決議された頃の赤磐郡(昭和50年代始めの頃)の医療事情
赤磐郡は岡山市の北東部に位置し熊山町、瀬戸町、山陽町、赤坂町、吉井町からな
り、医師会病院を考えた頃は昔ながらの純農村に岡山市のベッドタウンとしての大
型団地(山陽団地、ネオポリス)の造成がかなり進行していた。
岡山市まで自動車で30分もあれば十分行ける、遠いところでも1時間もあれば行
けるという地の利もあってか、赤磐郡には熊山町立病院のわずかな入院ベッドがあ
るだけで救急医療をはじめ、岡山市内の病院に全面的に頼っていた。当時は厳しく
なった、厳しくなったと言いながらもまだまだ医療の世界はのんびりとしていた。
赤磐郡医師会の大きな行事といえば年1回の会員の親睦旅行だと言われていた頃。
借金をして開業しておられる先生なんて若手の1~2の会員をのぞいてなし。昭和
51年当時山陽町の医療機関はわずか10、現在はその倍以上である。しかし将来
の赤磐郡の地域医療を考えるとき、やはり赤磐郡のことは赤磐郡で、そして将来は
検診や、リハビリテーション、看護婦の養成、特別養護老人ホームも必要であり、
我々医師の卒後研修なども出来る医療施設がぜひとも必要であると考えた。
そして共同で利用できる医師会病院が将来の地域医療の方向ではなかろうかと考
えた。
当時は現在のように病診連携といった考えも言葉さえなかった。開放型病院とか、
共同指導料、紹介指導料もなかったし、将来できるといったことも夢想だにしなか
った。しかし結果的には先見の明があったといえようか?と思う。そして山陽町、
瀬戸町の先生方には事あるごとにその必要性を訴えていた。赤磐郡に病院らしい病
院はない。我々は入院をはじめ、救急医療、難しい検査すべて岡山市の病院に依存
している。将来の赤磐郡の医療を考えるとき、やはり我々が主体性を持って地域医
療を行うには一つ病院が必要である。どんどん進歩する医療に遅れない様にするに
も必要だ。検査機器の共同利用も医療の無駄を省くためにも必要なことであると。
牧歌的な医師会であった、がやはりそろそろ都会化の波は押し寄せてきていた。
T会病院が赤磐郡をねらっているとか、ある種の人権団体が病院を作ろうとしてい
るといった噂があったり、(具体的な病院名をきいたこともある)当時山陽町医師
団のまとめ役をしておられたH先生のところに現実に打診があったケースも
あった。そのようなとき3人のDr.で下市に病院を作りたいとの具体的な話が
持ち込まれた。そして山陽町医師団に非常招集がかかりどう対処するかとの問題が
投げかけられた。当然必要ないから断固お断りとの結論であった。これからもこの
ような事は続くであろう。いかに便利が良くても赤磐郡内に入院ベッドを持った
病院がないのはおかしい。
当時山陽町は人口急増期であった。いろんな予防注射も現在のような任意接種でな
く集団接種。学校や保健センターに出かけて終わったらお茶を飲みながら雑談をし
て帰るなんて事も少なくなかった。したがってお互いの意志疎通は抜群であった。
(当時は医師の数が少なかったこともあろう)そしてとてもまとまりがよく悠々と
やっておられる先生ばかりで、がつがつやらなければならない会員は皆無。そのよ
うな場を借りて赤磐郡に入院するところがないのは困る。いざというときあちこち
の病院にお願いしなければならない。自分たちで運用できる病院をみんなで赤磐郡
に作ろうではないかと訴えた。H先生、F先生は「そう簡単に言うが大変だよ。」
と乗ってくださらなかった。無借金、悠々とやっている先生に何もそんな苦労をし
なくてもとの意識が強かったように思う。それでも熱く繰り返し話していた。
そうこうしているうちに先に述べたように、T会が出てくるとかある種の人権団体が
病院を作ろうと企画していると言った噂?が出たり実際にH先生のところに面会に
来るようなこともあった。私は当時の県医師会のI事務長と親しくさせていただいて
いて、いろんな情報が速やかに入ってきた。そしてH、F先生もさすがに世の中の流
れを読まれ、医師会が中心になって病院を作る必要があると認識されるようになった。
H先生とF先生は1Kmと離れていないところで全く同じ内科を開業、仕事の上では
競争相手といっても良い状態だったが、お二人とも経営的には安定されていたし不思
議と馬があって仲が良かった。このようなことも一致団結してやらなければならない
難事業遂行に大きなプラスであったと思う。私もH先生とは開業する以前からゴルフ
をご一緒したり、F先生とは松山で一時ご一緒したことがあり、開業に当たってはい
ろいろご助言をいただき、好きなことが言える関係にあった。その様なとき昭和54
年(1979年)6月15日夜 言い出しっぺの私の家にH、F先生においでいただき
医師会病院設立について話し合ったのが 医師会病院設立への第1回目の集まり
であった。そのとき確認したことはなんと言っても人――院長に立派な医師が得られ
るかどうかが決めてであろう。良い院長が得られればやろう。場所は当時のI町長に
お願いしよう。医師会会員にしっかり広報をしなければ。医師会の理事会に持ち込ん
で了承を得なければ。といった大まかなことが話し合われた。
このときまでに我々は経営と言うことには全く素人、職員が何人、そしていくらの売
り上げがあるのかといったことも全くわからない。お手伝いをさせていただいていた
K病院のI事務長さんが経営のプロ。100床の病院として何人医者が必要で、ナー
スが何人etc必要で いくらの診療報酬が得られるか。借金の返済計画まで作って
いただいて二人の先生に見ていただいた。当初外来診療は原則としてしない。紹介患
者と救急患者しか診ない。入院主体の病院を考えていた。(なぜ開院時のベッド数が
121床だったかというと 普通に外来診療をする100ベッドの病院は外来診療
を全くしない120床の病院と収入、職員数が同じくらいということであった)
小坂内科のナースの主人に設計士がいてどのようなものになるのかざっとした平面
図も書いていただいた。これが医師会病院設立の第一歩であった。
当時の赤磐群医師会
当時の赤磐医師会員数は休会中のものも入れて38名であったように思う。
当時は医師会に仕事らしいものも無く、事務局は非常勤の職員の自宅においていた。
もちろん携帯電話はないし、パソコンはない。コピー機は無い。必要な書類はガリ版
刷りであった。医師会員が集まるところも無い。集まる必要もない。勉強会もしてい
なかった。年1回の総会は料理屋で総会。といっても総会はほんの15分もあれば終
わり、後は一杯やるだけといった状態。
医師会病院設立について話し合う場所もいろんな資料を作って配布することも出来
ない。今ではとても考えられないことであろう。
集まるのは主としてH先生の自宅。たまに小坂の家。集まるといってもH、F、小坂
の3人。宿をした家では当然お茶とお菓子が用意された。後で聞いた話だが毎回同じ
御菓子ではまずかろうとDr.Hの奥様気を使われたという。集まるのは診療が終わっ
てから、したがって集まりは深夜に及ぶことも多かった。宿をした家の奥様大変であ
った。
医師会総会について
医師会病院だから当然医師会総会の賛同をえなければならない。当初それほど問題
視してなかった。会員と競合するような病院にしないと言うことははっきりさせて
おいた。病院は原則として外来診療はしない。(今のやり方には多少疑問がある。
医師が足りないというが不必要な外来診療などをしなければ今のスタッフで十
二分だと思う。)医療機器の共同利用など会員に大きなメリットありと思っていた。
昭和54年12月10日第1回目の医師会総会が開かれたが、もし潰れたら誰が責任
を取るのか?保証人は理事であろうとも会員に道義的責任があるだろう。と言った誰
にも答えられない様な問題が大きく取り上げられた。
もうひとつ大きな問題があった。医師会総会が開かれたときまでに、土地の手当ては
出来ていた、融資の話もほぼまとまっていた、院長の人選はすんでいた。そのことが
問題視された。
確かに医師会病院は必要だろう、場所も申し分ない が医師会会員の賛同なく先走っ
てこんなところまですすめているとは何事か。筋道が違うと。と言うことでもめにも
めて第1回目の総会は流れ。
我々は何も具体的な準備なくやりましょうと言ってみても話は進まないと考えてい
た。
病院はH,F,Kの3人で作れと各方面からのアドバイスもあった。しかし地域医療
の将来を考えた時医師会で病院を作るのはベストであろうと粘り強く会員と話し合
った。
そのような時、12月20日F先生から連絡があって「もう医師会病院の設立はやめ
ようとH先生が言っている。」そして3人でH先生宅に緊急集合どうするか話し合っ
た。やっぱりこのときが一番の危機であったように思う。
粘り強く会員に医師会病院の必要性を説明、頑張ってみんなでつくろうと説得してま
わった。年をあけて2月19日の第3回目の総会で医師会病院設立の賛否の投票が行
われ。我々の予想に反して白票が3票あっただけで反対票はなかった。(ちなみに賛
成 35票、反対 0票、白票 3)ちょっと拍子抜けしたが荒れに荒れてのスター
トであった。これで名実ともに前に行くのみとなった。
人事
F先生が最初に云われたことであるが、「院長に人が得られるならやろう。そうで
なければやめよう」と。 事がなるかどうかは第一に良い人材が得られるかどうかに
かかっている。 人材 これはどんな企業でも同じと思われる。H&F先生は田舎へ
引っ込んで長くなるので人のつながりが少ない。任せるから頼む。といわれ何が何で
も良い人を探さなければならない。当時K病院に勤めていた同級生のY君に声をかけ
た。彼は赤磐郡からいろいろと患者さんが来院され、又救急患者も多いと云うことで
赤磐に一つ病院がなくてはなるまいと常々思っていたようですぐに「やろう」と立
ち上がり、病院設立に深く携わって、大きな力となった。病院がオープンしてからも
病院のため全力で頑張ってくれた。現在何とか医師会病院がうまくいっているのは初
代院長の功績である。(罪も多々あるがあえてあげない)病院の基礎を築いた功労者
である。オープンして数年後医師会会員とY君の病院に対する考え方に少しだけずれ
が生じ、彼がやめていったのは残念である。私が当初彼を誘ったとき一番懸念してい
たことであった。院内に良いブレインがいなかったこともあるが私が十分彼を助けて
やれなかったこともある。いろんな意味で助けてやらなければならない私が力不足、
お互いの考えにちょっとした誤解があったように思う。今にして残念である。彼に申
し訳ない。そしてかれが去っていったとき私もやめた。
Y君は設立準備の時 当初から一日の仕事が終わったら山陽町まで出かけて、一生懸
命頑張ってくれた。院長が決まったら当然婦長、事務長の人選である。我々の考え方
として、実際に仕事をするのは婦長(当時の呼称)である。設計の段階から、婦長も
決めて仕事のしやすいように設計に参画してもらおう。と言うことで院長と私に人選
が任された。彼とも話し合い私たちがインターンをした当時のS病院の外科病棟の主
任であったF君はどうだろう。気心も知れているし積極的だし。と白羽の矢を立て話
を持っていった。直ちにOKが出た。
ナースの募集、人選は彼女に一任。看護婦募集は大変であったが彼女は県内あちこち
飛び歩いてナースを集めてきた。オープン当初の婦長として苦労も多かった様だが本
当によくやってくれたと思う。もちろん看護婦詰め所の設計などは彼女の意見を採り
入れた。小さな事だが病室番号をどちらからどう付けてゆくか?なんて事までみんな
で遅くまで話し合った。今にして思うと楽しい思い出。
院長、婦長と来れば次は事務長。
同級生のI君(S病院名誉院長)の紹介でNK病院の元事務長Y氏を候補とした。そ
してH先生、院長そして私でお願いにあがった。彼は功なり悠々とやれる立場にいら
した。それをあえて火中の栗を拾ってくださいと。今受け取っておられる給料よりダ
ウン。家も新築されていた。それをすべてを投げ打って我々のために一肌脱いでくだ
さい。というのだからまことに虫の良い話。しかしありがたい事に火中の栗を拾って
くださった。今にして申し訳なかった。彼は大企業出身、我々のような田舎のけちな
医者とは違った。何かと医師会の理事会と相容れないものが出てきた。次第にぎくし
ゃくしたものとなった。十分支えてあげられなかった事 申し訳ない。
銀 行
金のこすは下 事業のこすは中 人のこすは上 されど
金なくして事業なし 事業なくして人はなし
とやら云いますが 何をするにもどんなすばらしい事業をするのにも全て金。いくら
きれい事を言ってみても、いくら立派な計画ができても金がなくては前に進まない。
医師会にそんな金があるはずがない。当時の赤磐郡医師会の先生方は前にも述べたが
ほとんどみんなといって良いほど、銀行とはお金を預けるところであって借金をして
いるのは若手数人。
通常何か事業をするのに自己資金全くなしでは銀行もどこも相手にしてくれない。
少なくとも2割くらいの自己資金がなくてはならない。赤磐郡医師会に自己資金は
全くない。
理事の先生方とC銀行瀬戸支店へ(当時赤磐支店はなかった)行ったが、石橋をた
たいてもわたらないといわれるくらいのC銀行。(今は少し変わってきたようだ
が。)鼻も引っかけてくれなかった。門前払い。話もろくすっぽ聞いてくれなかっ
た。さてどうしたものやら。困ってしまった。銀行からの融資がなければなんとも
ならない。この計画もこれまでになる。名案はない。
しかし天のお助け、私のS高時代の仲良しの同級生が京都大学を出てS銀行に入り、
大阪で支店長をしていた。その友達に相談、紹介してもらってS銀行に行った。赤磐
郡医師会はS銀行とは全く取引がなかった。銀行も紹介があって何とか話を聞いてい
ただけるようになった。間もなく支店長が転勤になって新しい支店長が赴任していら
した。もちろん新しい支店長にも友達からアタックしてもらった。そして偶然の幸せ
があった。通常支店長は家族をつれないで単身赴任。ところがこの支店長は奥様同伴
で赴任された。そして奥様が愚妻の同窓生で1年先輩であることが分かった。顔見知
りではなかったが同窓で、しかも岡山は初めてで全く知り合いもないとのことで急速
に親しくなった。銀行の支店長の奥様が融資先と親しくつきあうことはタブーだそう
だが、奥様寂しかったのかたびたび遊びにいらした。ご主人は大阪の友達を通しての
知り合いと言ったことで、家族ぐるみのつきあいのようになった。建設委員会で夜い
ろんな事を検討していてよくわからないことがあったら直接ご自宅へ電話して教え
いただいたことも幾度かあった。融資担当者(C君)には申し訳ないことをしたと思
っている。
銀行はそれなりにいろんな事を言ってきた。定期預金をしてくれだとか、診療報酬を
振り込めだとか。そんな時その様な難題にどう対処したものか まずは大阪の友達に
電話で教えてもらった。これは銀行の建前だからこうこうしろとか、これは何とかし
てやってくれとか。岡山支店の頭の上を飛び越えていろいろ申し訳ないことをしたと
思う。こんな事もあった借金の保証人として理事全員になってくれと要求してきた。
これは至極当然のことである。ところがある理事が借金の保証人にはならないと拒否。
我々にはどうしたものか銀行の心証を悪くしても困る。大阪の友人に相談して知恵を
借りたこともあった。
全く自己資金がないがどうしたものかという問題にも支店長が知恵を授けてくれた。
会員の先生方に幾ばくかの資金を融資する。それを自己資金として医師会病院に差し
出す。(病院債)できれば2億円ほどほしいという。Y院長も率先して協力してくれ
た。がお金のこととなると田舎医師会、何とかなると思ったがなかなか集まらなかっ
た。(1億円ちょっと)病院への出資、すなわち病院債の出資高で医師会病院への思
いがわかるでしょう。がこれは出さないことになっているらしい。
(最高の出資者と最低の出資者の差は100倍以上)
それでも何とか銀行は面倒を見てくれた。後年 支店長が横浜に転勤で行かれたが、
横浜で学会があったとき愚妻と一緒に支店長ご夫妻とお食事をご一緒した。そのとき
支店長が「十分なことができなくて申し訳ない。実はあのとき本店の融資部から先生
方が仲間割れしたら病院はどうなるかわからない。深入りしないで適当にしておけと
ブレーキをかけられていました。」と打ち明けられた。
こんなこともあった。通常支店長は長くて2年。次の支店長が岡山に赴任していらし
て「岡山で一番にご挨拶に来ました」と幣院にいらしてびっくり。支店長は転勤の辞
令を副頭取からもらうらしい。転勤する支店長は1部屋に集められ、一人ずつ副頭取
の部屋に呼ばれて辞令をもらう。待っている間に君はどこだ、君はそこだとお互いに
わいわい云いながら順番を待っているのだそうである。辞令をもらって副頭取の部屋
から出たとたん(私の友人から)「岡山支店か、赤磐郡医師会病院をよろしく頼むぞ」
といわれました。どうぞよろしくとのことでこちらが恐縮するようなことであった。
その様な事で銀行とはとても良い関係が築けたことは大きかったと思われる。
現在はC銀との取引もあるがS銀行は快く 近くの銀行と取引がなくてはと譲って
くださった。C銀さんには悪いがなんとか回りだしたらぜひ当行とも取引してほしい
と頼み込んでこられた。
強きを助け弱き気をくじくのが銀行である。
岡山県衛生部 O部長にお世話になったこと
病院創設にあたって県衛生部のバックアップなくしてはいろんな不都合がある。
早めに県衛生部とコンタクトを取っていないとの認識で、まだ総会の承認も得てい
ないときから衛生部との接触を始めた。当時の衛生部長はO先生。これまた不思議
な縁で私の大学での直接の上司 K先生と大の仲良し。早速紹介してもらってY院
長といろいろと接触、教えていただいた。岡山県で初めての医師会病院と言うこと
で力を入れてくださって知恵を授けてくださった。僻地中核病院に指定してくださ
った。そしてたくさんの補助金をつけていただいた。我々はそのような補助金があ
ることさえ知らなかった。そして公益法人と言うことになって、税金を納めなくて
も良くなった。設立後の運営上ものすごい力となった。(正直僻地中核病院の補助
金がなくて、税金を取られていたら医師会病院の運営は行きつまり、今日の病院は
なかったと確信する。)先生には感謝してもしすぎではない。オープンしてからも
陰になり、日向になってバックアップしていただいた。有り難いことでO先生のご
助言がなかったら運営にも差し障りがあったろう。
皆様の暖かいご援助で今日の医師会病院がある事を忘れてはならない。
設計&建設
田舎の藪医者集団? 世間のことは全く知らない。病院を建設すると言ってもどこ
からどう始めて良いものやら。幸いに当院のナースの旦那が設計士。ある時建設委員
会で彼を招き設計事務所の話を聞いた。知らないことばかりであった。そして2~3
の設計事務所が推薦され我々は「B建設設計」にお願いすることにした。当初現在地
はネオポリスからの道路につながる橋は(下市下橋)まだ無かったし、道より一段低
かった。埋め立てると相当コストがかさむ。ということで地下のある設計にしてくれ
ていた。がこれでは問題があろうと埋め立てることにした。幾晩も夜遅くまで討議、
徹夜のようなことも多かった。設計では院長、婦長それに事務長の意見を尊重した。
そして将来の拡張も視野に入れた設計とした。
何とか設計が出来てさて建設業者の選定。これまたどうしたらよいのかわからない。
高校時代の仲良しがO組にいた。それも結構いいところに。それに電話でいろいろと
アドバイスを受けた。一般競争入札として来るものは拒まずでなんと30数社。埋め
立てをしたA・D ジョイントがが落札。(7.75億)
H先生倒れる
山陽町の医師団のまとめ役であって赤磐医師会の副会長でいらしたH先生 豪傑
で腹の太い先生であった。山陽町以外の会員の先生、(理事の先生も含めて) これ
は山陽町の問題だ、山陽町が中心になってやらなければならない、我々は出来るだけ
のことはするよ といったさめた状況であった。T会長は特に方針は出されず協力し
てくださった。H&F先生、のエネルギッシュな行動、T先生のそれを静かに見守っ
て下さる事がなければとてもとても岡山県初めての医師会病院は出来なかったであ
ろう。5月19日めでたく起工式も執り行われて、やれやれと建設委員会一同、院長
と夜の岡山に出ていたとき建設委員長H先生がダウン!! Y院長がK病院へかつ
ぎ込んだ。頑張られたが、残念病院の完成を見ず6月29日帰らぬ人となられた。
(わずか53歳であった)剖検で肝臓ガン 今のようにB,C型肝炎の検査は無かっ
たがC型肝炎?では無かったかと推察する。いまだ悲しい思い出である。H先生がい
らっしゃらなかったら病院は100%出来なかったであろうと思う。すばらしいもの
を後輩の先生方に残してくださった。先生有難うございました。心よりご冥福をお祈
りいたします。次期建設院長にF先生が就任された。
診療体制について
先にも少しふれたがこの病院では原則として外来診療はしない。外来診療をしない
医師会病院は従って120床が外来診療をする100床の病院に匹敵する。シミュレ
ーションしていただいたところでは 外来診療は入院患者を確保するためにしてい
るのであって、入院患者はすべて紹介で確保できるなら経済的にもその方が有利であ
る。そして外来は紹介患者だけは診る。したがって外来をすはスペースもわずかしか
取らなかった。逆に医師会のカンファレンスルームや会員室は良いところとした。
高血圧で血圧だけ測って薬を1ヶ月分も出したり、糖尿病のコントロールをだらだら
としてゆくようなことは考えてなかった。会員に病院設立を説明して回るとき外科の
先生にも「医師会病院の前で転んでけがをした患者さんがあったとしよう。差し当た
っては病院が処置をしても 明日からは近くの外科の先生に行きなさい。」と先生方
のところに返す。そういった病院にしましょう。
手術にしても時には先生方も病院の先生と一緒に手術されてもいいのではありませ
んか?そしていとぬきでも済んだら先生の診療所につれて帰って入院させておいた
ら。
などと説いて回った。出来るだけ開業の先生方と医師会病院と競合しないように、そ
して入院主体の病院にしたいと思った。それが会員の医師会病院設立に賛成していた
だける大きな条件でもあるし、経済的にも開業医にも医師会病院にもメリットがある
と考えていた。今でも本来の医師会病院のあり方はそうでなければならないと思って
いる。ちょっと今のやり方は間違っていないだろうか?医師不足なんて言うけれど開
業医に出来ることに病院は手出ししないで能率的にやればずいぶんと余裕を持って
本来の仕事が出来るのではなかろうか。
当直について
3月1日オープンでオープン当初は院長の他は内科、外科各1名のスタートであっ
た。当然当直は会員が助けてやらなければ出来ない。3月1日のオープンであった
がこの日院長と私が泊まる、いや私が泊まるとやり合ったがやっぱり院長が当直す
るのが筋道と思って譲って3月2日に当直をした。本音を言うなら長いこと当直を
していなくて不安だったが、何回かしている内になれてきた。会員数人が協力して
当直を助けたが下のような事情でこの年で会員の当直はやめにした。
理由その1。会員は翌日帰って診療をしなければならない。そのためには遠い人もあ
って8時過ぎには病院を出なければならぬ。そのときまだ病院の医師はきていない。
病院をあけてしまうわけにも行かぬ。会員が当直するときは院長が早く出てくれてい
たがこれは大変。
その2 やっぱり重症患者さんが来院されると長く病院の当直をしていないと不安
である。勉強にはなるけれど。
その3 当直をする会員としない(出来ない?)会員があるのは不公平である。
といった十分にいろんな事を検討しないでさしあたって走った会員当直は1年に満
たない間にぽしゃった。
おわりに
当時の県医師会のI事務長と昵懇でありいろんな情報をもらった。
当初の経営計画 K病院のI事務長にシミレーションしていただいた。
現在の医師会病院のあるところまだネオポリスからの道路も橋も無かった。
場所の選定、土地の買収はI町長にお願いした。
院長、婦長、事務長もそれなりのつながりでスムースに確保できた。
融資 これが一番だが高校時代の仲良しが一肌脱いでくれた。彼がいなかったら
融資はうまく出来なかったであろう。
すなわち今日の医師会病院は無かったと思う。
加えて支店長の奥様と愚妻が同じ大学卒、学年が1年違いとは。
衛生部長 私の上司と仲良しとは。僻地中核病院になっていなかったら??
このように人のつながりが大きかったように思う。
こうして大変な苦労をしたが、多くの皆様のお助けがあって 天の運、地の運、
時の運に恵まれて医師会病院は出来た。
いまさらながら感謝いたします。とともにご迷惑をおかけした皆様、不義理をしたの
ではないかと思われる皆様も少なくありません。そのために人生を狂わせたのではな
いか思われる方もあり、心苦しい限りです。深く深くお詫びします。
医師会病院を作ろうではないかと言い出して建設に頑張ったものとして果たして
医師会病院を作ってよかったのだろうか?今もって自問自答している。
すべては歴史が評価してくれるであろうが。
ただもし医師会病院が無かったら民間の病院が必ずや出来ていたであろう。
医師会病院があるから会員の勉強会が出来る会議室もある、専任の事務員もいる。
しかし医師会病院があるがために理事の先生は苦労がたえないであろう。
(創業安く守勢難し)
果たして私の考えていたことした事は正しかったのか?心配である。
医師会病院設立の頃の記録を残しておくのも私の勤めであろうとまとめました。
顰蹙を買うような部分も少なくないのではなかろうかと思いますが、どうぞお許しく
ださい。